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2008.11.28 Friday

うらにし

 丹後地方では晩秋から冬にかけて、北西の季節風が雨や雪を運んできます。地元ではこれを「うらにし」と呼びます。

 私は当地に1年8ヵ月ほど住みましたが、こちらは四季の変化が非常にはっきりしていて、おそらく日本人がイメージするとおりの四季なのだろうと思います。
 早春はまだ風が冷たく、陽春には桜花が咲き誇り、初夏に山々が新緑に覆われ、盛夏にはその緑が濃くなり、紺碧の海が陽光に煌めきます。
 仲秋には稲穂が黄金色に実り、晩秋には柿の実がなり、野山が赤や黄色に彩られます。初冬には海が荒れ始め、空がどんより曇ります。そして厳冬には白い世界が広がります。
 これは私たちの民族が長い歴史の中で体験してきた、典型的な日本の四季ではないでしょうか。都会に住んでおられる方にとっては、季節の移ろいに直接触れる機会が多くないかもしれませんが、丹後では常に身近なところで、繰り返し巡ってくる季節に出合うのです。

 晩秋、阿蘇海周辺の山々は紅葉が進み、ご覧のような色彩を見せます。
彩色の阿蘇海

 今年は11月19日に寒波が襲来して、こちらでも初雪が降りました。その翌日にも降雪がありました。次の写真はその折に、当ホテルから阿蘇海を隔てて、雪の積もった山々を眺めながら撮ったものです。
霜月の降雪

 これから師走に入ると、下の写真のような曇り空となり、モノトーンの世界に包まれます。
単色の阿蘇海
 空は暗いですが、蟹をはじめ、食べるものの一層美味しくなるのが、丹後の冬です。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.11.23 Sunday

金剛院の紅葉

 数日前、丹後でも初雪が降りました。昨年に比べて早く、紅葉の見頃が短くなるのではと気懸りです。
 今日は、丹後随一と言われる舞鶴の「金剛院」(こんごういん)の紅葉をご紹介します。この寺は、関西花の寺第3番札所にもなっています。

 以前ご案内した西国霊場の松尾寺(まつのおでら)と同様、金剛院は丹後の最東端に近い位置にあります。国道27号線の「金剛院口」という交差点から南下されますと、ほどなく寺へ行き当たります。
 駐車場の前に川が流れ、「慈恩橋」という小さな橋が架かっています。
 橋を渡ると山門がありますが、入山される前に、川を少し遡ったところにある公園へ向かわれることをお勧めします。そこからは、山を覆う紅葉に埋もれるように建つ、金剛院の三重塔を眺めることができるのです。
金剛院三重塔
 紅葉と三重塔の取り合わせが、この上なく見事ですね。

 塔を眺めた後、川に沿って慈恩橋へ戻ります。次の写真は、橋上から振り返って撮ったものです。
慈恩橋から

 山門から境内へ入り、川に沿った小道を再び三重塔へ向かいます。丹後で唯一の三重塔で、重要文化財となっております。
 塔の横の石段を上れば、頭上に紅葉が覆いかぶさり、眼下に塔が垣間見えて、寂光浄土かと思うばかりの光景が展開します。
三重塔を見下ろす

 石段上には本堂雲山閣(うんざんかく=拝殿)が建っています。地面には、銀杏の黄葉が敷き詰められていました。
本堂と雲山閣
 境内には散策路が設けられ、一周することができます。

 金剛院は829年(平安時代初期)、平城(へいぜい)天皇の皇子・高岳(たかおか)親王により、創建されたと伝わります。親王は嵯峨天皇の皇太子となりましたが、薬子(くすこ)の変に連座して廃され、後に出家して、空海(弘法大師)の弟子になったそうです。
 しかし彼がユニークなのは、更にその後です。862年、彼は九州を経て、唐の長安へ渡りました。しかも当時の唐では仏教が弾圧され、優れた師を得られなかったため、なんと天竺(インド)まで赴こうとするのです。
 彼は華南の広州から海路、天竺を目指して出発しますが、やがて消息が途絶えました。一説に、マレー半島で死去したとも言われます。
 高貴な身分に生まれながら政局に翻弄され、仏門に入ってからの行動力も人並み外れたものです。美しい紅葉を見ながら、彼の生涯にも非常に興味を覚えた一日でした。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.11.19 Wednesday

大江山の彩り

 宮津市街の中央を南北に走る京街道を南下しますと、次第に道は細くなり、大江山の東側山腹の普甲(ふこう)へ向かう上り坂となります。
 現代は京都府道9号線となっていますが、江戸時代には宮津藩の公路が延びていました。石畳の山道を多くの旅人や商人が行き交ったと思われ、かつての面影が残っています。

 11月中旬、このあたりから道路の両側の木々は、赤や黄色に染まります。今日は普甲峠を越え、大江山の彩りをご紹介しましょう。
 峠を南へ下れば、木々の色がとても艶やかでした。
大江山南麓

 美しく色づいた山肌を見ながら南下し、「日本の鬼の交流博物館」への岐路を通り越してすぐのところに、「二瀬川(ふたせがわ)渓流」という谷があります。
 見上げると吊橋が架かっています。付近の駐車場に車を停め、吊橋に上ってみました。そこから渓流を眺めたのが、次の写真です。
二瀬川渓流
 緑の中の赤や黄色が綺麗でしょう? 宮津市街から車で30〜40分のところに、こんな美しい渓流があるのです。

 揺れる吊橋の感触を楽しんだ後、府道を引き返し、鬼の交流博物館への分岐へ入って、次に「鬼嶽(おにたけ)稲荷神社」を目指します。そこは大江山への登山口であり、雲海で有名であり、そして紅葉の名所でもあります。
 途中に「千丈ヶ原」(せんじょうがはら)という平坦地があり、そこから大江山の最高峰である千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ)を眺めました。
千丈ヶ原
 山腹の木々が様々に彩られて、絵のようです。

 目的地の鬼嶽稲荷神社へ着いたとき、谷間に沈んでいた雲が上昇し、景色が見えてきました。
雲が上昇

鬼嶽稲荷からの眺め
 低地では見られない、鮮やかな色彩ですね! さすが「丹後天橋立大江山国定公園」です。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.11.15 Saturday

宮津の錦秋

 前回のブログで、丹後では紅葉(もみじ)をそんなに見かけないと書きました。しかし勿論、見事な紅葉がないわけではありません。
 昨秋、私はすてきな紅葉を幾つか見つけました。今日は、宮津市街の秋を訪ねてみましょう。

 最初は、当ホテルから天橋立ビューランドへ行く途中で見かけた大きな楓の木です。葉全体が輝くような黄色に染まっていました。
文珠の黄葉

 また、私が北近畿タンゴ鉄道に乗って車窓を眺めていると、如願寺川を渡るときに偶然、鮮やかな紅葉を目にしました。列車を降りた後、改めて現地へ行って撮ったのが、次の写真です。
如願寺川の紅葉
 川を渡ったところにあるのが「如願寺」(にょがんじ)で、1024年開創の古刹です。江戸時代初期(17世紀後半)に建立された本堂・仁王門が、京都府指定文化財となっております。

 如願寺の北に、「山王宮日吉(さんのうぐう ひよし)神社」が隣接しています。同社の例祭が「宮津祭」であることは、8月23日のブログでもご紹介しました。
 この境内で山茶花(さざんか)の巨木が、無数の淡いピンクの花を咲かせていました。樹高9m、枝張り10mと言われ、宮津市指定天然記念物となっています。
山王宮の大山茶花
 周囲には紅葉も散見され、宮津の秋の彩りを満喫することができます。

〔注〕 これらの見頃は、今年は来週あたりになりそうです。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.11.10 Monday

筒川の晩秋

 舟屋で有名な伊根から、国道178号線を北上しますと、半島を走っているとは思えないような山河が、ほどなく車窓に展開します。

 このあたりを流れる筒川(つつかわ)流域には、8月17日のブログでもご紹介した「浦嶋神社」があるなど、浦島太郎の伝承が今に息づいています。
 神社に伝わる由緒書では、浦島太郎は元々「浦嶋子」(うらのしまこ)という名前で、西暦478年に「常世(とこよ)の国」へ行き、825年に帰って来たのだそうです。時の淳和(じゅんな)天皇はこの話を聞き、浦嶋子を「筒川大明神」と名付け、小野篁(おののたかむら)を勅使として宮殿を造営させたと言います。
浦嶋神社
 境内資料室には、室町時代作とされる玉手箱も伝わっています。

 筒川に沿って河口へ下り、本庄浜(ほんじょうはま)に佇んで海を眺めますと、沖には、まず近くに鯛釣岩(たいつりいわ)、遠くに沓島(くつじま)を見ることができます。沓島の右側には更に冠島(かんむりじま)もあるのですが、この位置からは見えません。
本庄浜
 いかにも浦島太郎が帰って来た浜辺という感じがしませんか?

 筒川を遡ります。盆地状になっている流域には田畑が広がっています。更に奥へ進みますと、山々が次第に色づいてきました。緑の中に赤や黄色が点在して綺麗です。
木々が色づく

 以前、晩秋に京都の寺社の庭で、燃えるような紅葉(もみじ)を見ていた私は、丹後へ来て、この木をそんなに見かけないのに気づきました。京都では長い歴史をかけて、作庭を重ねてきたから目立つのでしょうね。
 そのかわり丹後半島では、山々全体が黄色に彩られるところが多く、行く秋を感じさせます。
全山が黄色に
 この辺の名産に「筒川蕎麦」があり、私も大好きです。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.11.04 Tuesday

伊根の舟屋

 8月14日のブログで、天橋立から伊根(いね)までの道をご案内しましたが、今日は伊根の舟屋(ふなや)をもう少し詳しくご紹介します。
 
 私が初めて伊根の舟屋を知ったのは、1993(平成5)年に放映されたNHKの朝の連続ドラマ「ええにょぼ」でした。神戸の医大を卒業した新婚の女性研修医が、故郷の伊根に近い病院へ単身赴任し、遠距離夫婦のすれ違いや嫁姑問題に悩みながらも、医師として成長していく姿を描いたストーリーだったと記憶しています。
 当時、私は週末に神戸の街を歩くことが多かったので、神戸に親近感を持っていました。一方で伊根という地名は、その頃に初めて聞いたような気がします。
 因みに、「ええにょぼ」とは丹後方言で美人という意味だそうですが、私は今なお当地で直接、この言葉を(地酒の名前以外)耳にしたことがありません。

 さて、伊根の舟屋は今や有名な観光名所となっております。天橋立へ来られるお客様も、多く足を運ばれます。天橋立から伊根までの所要時間は、自動車を運転されて40分、路線バスに乗られて55分というところです。
 自動車の場合、国道178号線を進み、伊根町役場手前の交差点を右折されますと、舟屋群が建ち並ぶ集落へ行くことができます。
 舟屋は海から直接、船を民家の1階へ収容できるようにした構造で、現在約230軒あると言われています。今日は、舟屋や伊根湾をよく見るために、伊根湾めぐりの遊覧船に乗ってみましょう。私も昨秋、同じコースを体験してみました。
朝の伊根湾へ

 伊根湾は丹後では珍しく、南側が開けた入江です。日本海の荒波を防ぐ、天然の良港と言えるでしょう。
 遊覧船が出航しますと、乗船客の手にする「えびせん」を期待してか、多くのカモメが船を追いかけてきます。一説に、カモメは最近では魚よりも「えびせん」を好むとも聞きます。どうなのでしょうか?
 時折、カモメより大きいトンビまで舞い降りてきます。
遊覧船とカモメ

 遊覧船が伊根湾に入ります。湾口には「青島」(あおしま)という小島があり、蛭子(えびす)神社が祀られています。
 湾内にはところどころ、いけす筏が浮かび、浮桟橋のような場所で魚釣りをしている人もいました。舟屋群はぎっしりと並び、背後にはすぐ山が迫っています。
舟屋群
 瀬戸内出身の私は、潮の干満の差は大きいものだと思って育ちました。その目で見ますと、丹後の海は干満差が非常に小さく、それゆえに舟屋も成り立つのでしょう。
 船は湾内を一周し、30分の航海を終えて、元の船着場へ戻ります。

 その後、高台にある道の駅「舟屋の里伊根」(舟屋の里公園)へ行って、先ほど遊覧したばかりの伊根湾を見下ろしました。陽光を浴びて、水面が輝いています。
伊根湾を見下ろす

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.10.30 Thursday

西国第29番・松尾寺

 今日は、丹後のもう一つの西国三十三所観音霊場である「松尾寺」(まつのおでら)へ行ってみましょう。

 松尾寺は、若狭との境に聳える「青葉山」(あおばさん 699m)の中腹、即ち丹後の最東端と言ってもよい場所に建っています。
 この山は舞鶴市内から仰ぎますと、東西二つの峰が馬耳のように並んでいます(写真の右奥)。一方、福井県側から眺めますと、峰が重なって秀麗な形となり、「若狭富士」とも呼ばれます。
青葉山

 天橋立を自動車で出発すれば、大体の目安としては、西舞鶴の市街地まで40分、そこから東舞鶴を経て、国道27号線沿いのJR松尾寺駅まで、更に30分というところでしょうか。
 松尾寺駅を通り過ぎてすぐ、府道564号線へ進入して山道を上ります。成相寺といい、松尾寺といい、西国観音霊場は険しい山中にあります。かつて歩いて松尾寺を訪ねた善男善女は、自らに試練を課して、寺を目指したことでしょう。私が訪ねたときも、白い装束を着てリュックを背負い、山道を歩いて登られる巡礼の方を見かけました。
松尾寺山門

 松尾寺の創建は、成相寺に僅かに遅れる708年と伝えられ、今年は開山1300年に当たります。これを記念して今、本堂では本尊「馬頭観世音菩薩像」がご開帳されています。青葉山が馬耳に似た姿なのと、何か関係がありそうに思えました。
松尾寺本堂

 またこの寺は、多くの貴重な文化財を収蔵しておられます。今秋に「宝物殿」が完成し、これまで京都国立博物館へ寄託していた国宝の仏画「普賢延命像」や快慶作の「阿弥陀如来坐像」などを見せていただくことができます(有料)。
宝物殿

 境内の鐘楼の傍らに、樹齢800年の大きな銀杏の木が植わっています。舞鶴市指定天然記念物で、まもなく黄金に色づくことでしょう。
鐘楼と銀杏

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.10.26 Sunday

西国第28番・成相寺

 丹後には西国三十三所観音霊場が二つあって、第28番札所が宮津市の成相寺(なりあいじ)、第29番札所が舞鶴市の松尾寺(まつのおでら)です。今日は「成相寺」を訪ねてみましょう。

 成相寺の創建は704年と、非常に古い時代です。
 この寺へ行く方法は、一般的には2通りあります。股のぞきの絶景で有名な「傘松公園」から徒歩または路線バスで訪ねる方法と、自動車で国道178号線から丹後郷土資料館を経て境内駐車場へ乗り入れる方法です。
 バスの停留所「成相寺」を中心にご説明しますと、少し下ったところに赤い山門(仁王門)が建っています。
成相寺山門

 バス停留所の西側には五重塔が聳えます。2005年秋に、落慶法要が営まれました。鎌倉時代の様式で、高さ34mです。
成相寺五重塔

 本堂への階段右側には「撞かずの鐘」があり、1608年に鋳造された梵鐘にまつわる悲話が残されています。寄付を拒んだ女の抱く乳児が、融けた銅の中に落ちてしまい、できあがった鐘を撞くと、赤ん坊の泣き声が聞こえるので、撞くのをやめたというのです。
 また左側には、「一願一言の地蔵さん」が座っておられます。一つの事柄を一言でお願いすれば、どんなことでも叶えてくださるそうです。
 階段上には、成相寺の本堂が建っています。丁度、今は本尊「聖観世音菩薩像」が特別開帳されており、間近でお参りすることができます。今年は11月末まで、来年は4〜5月の間だけのご開帳で、これを逃しますと、次の機会はなんと30年後ということです。
成相寺本堂

 本堂に上がると、右側の梁に、左甚五郎作と伝わる「真向の龍」(まむきのりゅう)が掲げられています。
真向の龍
 本堂の向かって左側には、鎌倉時代の鉄湯船(重要文化財)が置かれています。
 
 本堂から車で5分ほど山道を上れば、「パノラマ展望所」へ着きます。
 ここは標高500mで、傘松公園から見るより随分高い位置から、天橋立を見下ろすことができます。
パノラマ展望所

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.10.22 Wednesday

大江山の雲海 〈2〉

 前回に続いて、雲海を取り上げます。
 大江山には更に有名な雲海の名所があります。私が以前、大江山の最高峰・千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ 833m)に登ったとき、車を停めておいた東側山腹の「鬼嶽(おにたけ)稲荷神社」です。どうせ雲海を見るなら、そこにも行ってみたいと思いました。

 普甲峠を越え、道を一旦下って、「日本の鬼の交流博物館」前を通り過ぎます。次の写真は、途中で見た、西の空に浮かぶ、夜明けの満月です。
夜明けの満月

 次第に夜が明けていきます。鬼嶽稲荷神社へ着いてみれば、十人余りがカメラを雲海に向けていました。なるほど、有名な展望所のようです。
 見事な雲海が一面に広がっています。日は既に昇っており、逆光の中、私も雲海を撮りました。福知山盆地が霧の中です。
 中央やや左の円錐形の山は、元伊勢内宮の近くにあって霊峰とされる、「日室ヶ嶽」(ひむろがたけ 427m)です。
鬼嶽稲荷からの雲海

 7時頃までいて、帰途に就きました。これから出勤です。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.10.18 Saturday

大江山の雲海 〈1〉

 秋の早朝、山間部では放射冷却で霧が発生し、山上からはそれが雲海となって見えることがあります。丹後では、大江山(おおえやま)がその名所と言われています。
 私は、家からさほど遠くない場所で雲海を見られるのを最近知り、一度見たいと思っていました。

 朝5時半に起床し、自動車のガラスに水滴が付いているのを確かめます。付いていなければ、空気中の水分が飽和状態になっていないので、雲海も見られません。
 宮津市南部の「普甲(ふこう)」への道を上ると、日の出の頃、峠付近に到着します。次の写真は、東の稜線から太陽が昇る瞬間を撮ったものです。心が洗われるような気がしました。
大江山の黎明

 雲海の下は、福知山市大江町だと思います。おそらく低地では濃い霧が立ち込めていることでしょう。画面左側の形の良い山は、「砥石岳」(といしだけ 408m)です。
大江山の雲海

 雲量がもっと多い、他人が撮った写真を、以前見たことがあります。私もそのような雲海を、一度実際に眺めてみたいと思いました。
 そこで、降雨があり湿度が高くなった翌日、好天になりそうなのを天気予報で前もって調べ、再度出かけることにしました。早朝、気温は期待したほど下がっていませんが、車体はしっかり濡れています。
 その折の模様が、次の写真です。雲量が前回とは全く違うでしょう? 砥石岳の頭だけが見えています。出かけた甲斐がありました。
再び見た雲海

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.10.13 Monday

味土野から碇高原へ

 前々回に山間部へ足を踏み入れたのを機に、今回も丹後半島の奥深くへ入ってみましょう。今日ご案内するのは、味土野(みどの)と碇(いかり)高原です。

 味土野は、丹後半島の最奥部と言ってもよいところで、ここには本能寺の変の後、細川忠興(ただおき)夫人・たま(明智光秀の娘)が幽閉されていました。
 丹後に伝わる話では、彼女は前々回ご紹介した世屋(せや)から味土野へ入ったらしいのですが、今は現地へ行こうとすると、西側の国道482号線から府道654号線を利用するのが一般的です。
 この写真の山々の奥懐に、彼女の隠棲地があります。このあたりから道は随分細くなります。
味土野の山野

 彼女が幽閉されていた「女城(めじろ)」へ行ってみました。この付近には、昭和初期は40戸ほどの民家があったそうですが、豪雪などで住民の大部分が去ったと言います。
 城跡に佇みますと、こんな山中に彼女は隠棲していたのかという感慨が湧いてきました。ここなら人目につかないでしょうから、この地が選ばれたことに納得してしまいます。
ガラシャ隠棲地
 彼女はやがてこの地を去り、大坂(大阪の表記は明治以後)へ移ります。そこでカトリックに帰依して、「ガラシャ」(神の恵み)という洗礼名を受けました。
 関ヶ原の合戦時、西軍の人質となるのを拒んで、彼女は死を選びます。その劇的で数奇な生涯を思うと、彼女が住んだ地に400年余を隔てて自分が立っていることが、不思議な気さえします。

 味土野から北東へ車を走らせ、蕎麦で有名な野間(のま)を過ぎますと、太鼓山(たいこやま)という丹後半島の最高峰があります(標高683m)。
 そこには風力発電所が設けられ、6基の巨大な風車が稼働しています。高さ75m、プロペラの長さが25mというのには驚きました。
太鼓山風力発電所

 更に北へ向かいます。そこには半島の中とは思えない、広々とした「碇高原牧場」が営まれています。
 ヤギや子羊が草を食むのを見ていると、心が癒されますね。
碇高原牧場
 ここは日本海が近く、天気が良ければ青い海の広がりを目にすることもできます。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.10.10 Friday

宮津−秋の行事

 今日は、宮津市街へ一旦戻って、秋の行事をご紹介します。

 最初は「和火」(やわらび)です。宮津市南西部の寺町周辺で、今年は10月10〜12日の午後6〜9時、7000個の灯篭を境内や道端にともします。
 この間、寺院の本堂を見ることができ、音楽演奏などの催しも行われて、普段とはまた違った、幻想的な空間を味わうことができます。
和火

 次は「丹後きものまつりin天橋立」です。着物の良さと天橋立を全国に発信するために開催され、今では秋の恒例行事として定着しています。
 今年は10月26日(日)に催され、当日は着物姿で天橋立を訪れると、様々な特典が用意されています。
きものまつり

 また、その日の夜には「ふゆ花火」が行われます。丹後に冬が近づくことを感じさせる行事で、2000発の花火が阿蘇海で打ち上げられ、天橋立を照らし出します。
ふゆ花火

 天橋立・丹後では、夏から秋にかけて多くの催物が開催され、情緒に溢れたひとときを過ごすことができます。ぜひお越しください。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.10.07 Tuesday

世屋高原の秋

 これまでご案内した丹後各地は、海岸に近い場所が多かったと思います。しかし、当地は内陸にもすばらしいところが多く、加悦谷や大江山を既にご紹介しました。
 これらに引き続き、今回は山間部の集落を取り上げます。

 宮津市の市域は、天橋立の北へも広がっています。その面積の大きな部分を占めるのが、「世屋(せや)高原」です。今日はそちらへ行ってみましょう。
 ところどころ狭い箇所はありますが、自動車でかなり奥まで行くことができますし、路線バスも運行しています。上世屋(かみせや)集落の秋は、ご覧のような雰囲気です。低地より少し遅れて稲が実り、稲木(いなき)に刈穂が掛けられていました。
上世屋の稔り

世屋の稲木

 この地は最近、映画の舞台にもなっています。瀬尾まいこさんの小説「天国はまだ遠く」が原作で、都会生活に疲れたOLが、自然や人々の温かさに癒されて、元気を取り戻していくという物語です。
 世屋高原や天橋立・宮津市街でロケが行われ、来月から全国の映画館で公開されるそうです。

 上世屋の集落から更に奥へ坂道を上りますと、「木子」(きご)という集落への道が分岐しています。そちらへ向かえば、やがて広大な畑が広がり、遠くに民家が点在するのが見えてきます。丹後半島の山間部に、こんなに平坦な農地があるのが不思議なくらいです。
 木子の集落には、農家のほかにペンションもあり、私が訪れたときには蕎麦の白い花が咲いていました。
木子の蕎麦畑

 木子への分岐を元の道に戻り、更に奥へ進みますと、「世屋高原家族旅行村」があります。
 域内の車道を南へUターンするように走れば、道は次第に下り坂となり、その先に棚田が広がります。実った黄金の稲穂の先には、遥かに宮津湾が眺められます。
世屋の棚田
 
 ここより先は道が細くなりますので、来られた道を引き返し、上世屋から海岸沿いの国道178号線方面へお帰りください。
 なお、旅行村から北へは「丹後縦貫林道」が通じており、スイス村や碇(いかり)高原へ行くこともできます。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.10.02 Thursday

小天橋と久美浜湾

 今日は丹後の西端、つまり京都府の西端を巡ります。地名で申しますと、京丹後市久美浜(くみはま)町です。

 前回の夕日ヶ浦から、弧を描きながら、砂浜が延々と続いています。
 そして、久美浜湾の入口をふさぐように延びる部分が「小天橋」(しょうてんきょう)です。砂州の延びる様子が天橋立に似ていることから、この名前が付けられたそうです。
小天橋

 久美浜湾が日本海と繋がる水路はごく狭く、湾内は海水と川水が混じり合う汽水域です。
 私は最初、湾岸に沿って車を走らせていたのですが、湾の全貌をつかみにくく、どこか展望できる場所はないか探しました。
 ありました! 湾の南東部にある「兜山」(かぶとやま)という、円錐形をした標高192mの小山です。頂上まで道路が通じていますが、幅が狭くてすれ違いが困難なため、車で行くのはお勧めできません。
 しかし、頂上の展望台からはすばらしい眺めです。ここから見ると、小天橋が日本海と久美浜湾を仕切っているのがよくわかります。
兜山からの久美浜湾

 久美浜湾の南岸では、城下町の名残を見ることができます。
 その中心が、次の写真の「豪商稲葉(いなば)本家」です。稲葉氏は美濃の稲葉一族(織田信長家臣)の末裔と言われ、江戸時代には廻船業を営み、近隣諸藩の金融を一手に担う豪商でした。
豪商稲葉本家

 湾の南西岸には、真言宗の古刹「如意寺」(にょいじ)が建っています。 関西花の寺第7番札所で、四季折々の花を楽しむことができます。とりわけ4月に咲く三つ葉躑躅(つつじ)は、濃いピンクが見事です。
如意寺仁王門

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.26 Friday

琴引浜から夕日ヶ浦へ

 前回に引き続き、日本海を眺めながら、西へ向かいます。

 「琴引浜」(ことひきはま)は美しい砂浜が広がり、一部では岩床も顔を見せています。
 前回も触れましたように、地元の方々が随分力を尽くされ、美しい環境が維持されています。他の海岸では漂着物を目にすることがありますが、この浜では美しさが保たれ、人工物も殆ど見えません。
浜に寄せる波

 網野の市街地の北には、「八丁浜」(はっちょうはま)という弧状の砂浜が続いています。
 遠浅の海岸では、夏は多くの人々が海水浴を楽しみ、他の季節もサーファーが波乗りをしています。また、ご覧のように海のすぐ近くで、サッカーをすることもできます(有料)。
八丁浜シーサイドパーク

 丹後半島を周遊するときによく利用する国道178号線は、網野からしばらく内陸を通ります。
 そこで国道から離れて、海沿いの道を行けば、「」(いそ)という集落に着きます。ここは源義経の愛妾・静御前(しずかごぜん)の出生地と言われています。母の磯禅師(いそのぜんじ)ともども白拍子(しらびょうし)として、京の都で活躍しました。
 義経が兄・頼朝と争い、吉野山で義経とはぐれた静は、鎌倉へ連行され、そこで我が子も殺されます。静は失意のうちに故郷の磯へ帰り、短い生涯を終えたとの伝承が、丹後では語り継がれています。
 次の写真は、静神社近くに造られた展望台から、磯の集落を眺めたものです。
磯海岸

 磯海岸から西へ断崖上の道を進むと、やがて「五色浜」(ごしきはま)という、大規模な波食台(砂地のない平らな岩床)への道が分岐しています。その坂道を下りたところには、遊歩道が設けられ、公園として整備されています。
五色浜

 元の道へ戻って西進し、浜詰(はまづめ)の町へ下りてきたあたりに、「夕日ヶ浦」(ゆうひがうら)という場所があります。
 その名のとおり夕日が美しい浜辺で、「日本の夕陽百選」にも選ばれています。私も優美な名前に惹かれて、好天の夕刻に訪れてみました。海に落ちる夕日は本当に感動的です。
夕日ヶ浦の落陽

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.22 Monday

間人から琴引浜へ

 久しぶりに丹後半島北岸を訪ねましょう。今日ご案内するのは、間人(たいざ)から琴引浜(ことひきはま)にかけての海岸線です。
 8月には海水浴客で賑わったこの地域も、秋になるとすっかり落ち着きを取り戻します。

 「間人」と書いて「たいざ」と読む理由については、地元に次のような伝承が残されています。
 6世紀末に蘇我氏と物部氏が対立して争乱が起きたとき、この地に聖徳太子の母親・間人(はしうど)皇后が、幼い太子とともに避難してきたと言われています。彼らの血筋は蘇我氏系であり、ここはその領地だったのですね。
 やがて乱が終息し、大和へ帰る皇后は、世話になったこの地に、自分の名を贈りました。しかし村人は、直接「はしうど」と呼ぶのは恐れ多いと、皇后が退座したことに因んで、「たいざ」と読んだそうです。
 現在、皇后と太子の像が、立岩の傍で海を眺めるように立っています。
間人皇后と聖徳太子
 この地には漁港があり、冬の味覚「間人ガニ」で有名です。

 間人漁港から海岸線に沿って西進すると、「城嶋」(しろしま)という小さな島が陸地に隣接しています。
 戦国時代には城塞があったそうで、夏は青い海が広がりますが、冬など荒れる日本海の波濤が押し寄せて、城兵の心細さは如何ばかりかと思いました。
城嶋

 更に西へ進むと、丹後地方の典型的な風景を見られる、なかなか風光明媚な海岸線が続きます。次の写真は逆光の下、眼前の磯浜を撮ったものです。
砂方海岸

 この海岸の先には、「琴引浜」があります。
 鳴き砂で有名な美しい砂浜で、「日本の渚百選」にも選ばれています。好天の日、砂浜を歩くと、石英の粒が振動してクックッという音がします。
琴引浜
 ゴミなどの不純物が砂に混じると、音が鳴らなくなるため、地元では美しい状態を保全すべく、懸命に努めています。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.17 Wednesday

大江山に登る

 加悦谷から見ると、いつも「大江山」(おおえやま)が目に入ります。今日は鬼退治で名高い、この山の一端をご紹介します。

 大江山は古来、源頼光(みなもとのよりみつ)が酒呑童子(しゅてんどうじ)の討伐に赴いた伝説で有名です。一行には、和泉式部の夫・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)や、金太郎こと坂田金時(さかたのきんとき)が含まれていたとされています。
 大江山の東側の山麓には「鬼」をテーマにした「日本の鬼の交流博物館」があり、私は興味津々、見せていただきました。
鬼の交流博物館

 私が大江山に登ったのは、この7月です。4月に、羽衣天女伝説が伝わる「磯砂山」(いさなごさん 661m)に登って以来、丹後では2回目の山歩きとなりました。
 元々山歩きが好きな私ですが、このように丹後へ来てからは、あまり頻繁に歩いてはいませんでした。そこで大江山に登るにしても、まずは足ならしをしようと、できるだけ高低差の少ないルートを探しました。大江山は連峰で、幾つかの峰があります。どうせ登るなら、最高峰の「千丈ヶ嶽」(せんじょうがたけ 833m)を目指したいと思いました。
 地図を見ていますと、東側の山腹にある「鬼嶽(おにたけ)稲荷神社」まで車で行けば、実際に歩いて登る高低差は、200m程度らしいのです。まずここをアタックすることにしました。また一人で登山する場合、万一熊に出合うと困るので、効果のほどはわかりませんが、鈴を持っていくことにしました。

 決行当日、朝早く起きて車を走らせ、鬼嶽稲荷神社の駐車場に車を停めて、山道に足を踏み入れました。コースは整備され、両側にはご覧のような木々や熊笹が茂っています。
大江山登山道

 鬼嶽稲荷神社からの登山道が快適なので、30分足らずで千丈ヶ嶽の頂に着きました。
 山頂は平坦で、西側に視界が開けています。また北の鳩ヶ峰・鍋塚、南の赤石ヶ岳と、同じ大江山連峰をなす峰々への道が続いています。
千丈ヶ嶽山頂
 あまりに早く山頂へ着いたものですから、さすがに少々物足らない気がしてきました。一旦車に戻り、山裾を半周して、今度は西側山腹の「加悦双峰(そうぼう)公園」から、同じ山頂をもう一度目指してみたくなりました。

 車を走らせ、福知山市大江町を経て、与謝(よざ)峠から加悦谷へ入ります。与謝の集落から双峰公園への車道を上り、終点に車を停めて、登山道を歩き始めました。
 次の写真は、登山道の途中から見た千丈ヶ嶽です。このあたりの標高は600m弱だと思います。
双峰公園からの大江山

 つい先ほど山頂に立ったことでもあり、無理をせず、気軽に行けるところまで行こうと思っておりましたら、路傍に「熊出没注意!」の標識を見つけ、今回はここで断念しました。

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2008.09.14 Sunday

加悦谷を行く 〈2〉

 加悦谷の中央部を東へ行けば、「古墳公園」があります。日本海三大古墳の一つ「蛭子山(えびすやま)古墳」と、それに隣接する「作山(つくりやま)古墳」が公園となっているのです。
 特に蛭子山古墳は、全長が145mもある前方後円墳で、埴輪を持つ古墳としては丹後で最初のものです(4世紀後半)。作山古墳は30m級の5基の古墳で、形も様々です。
古墳公園
 日本海三大古墳としては、ほかに網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳、神明山(しんめいやま)古墳が知られており、ともに丹後半島北岸にあります。
 「古代丹後王国」という言葉がありますが、大きな古墳を目の当たりにしますと、紀元前後から5世紀頃の丹後で何が起きたのだろうと、歴史ロマンをかき立てられますね。

 次の写真は、加悦谷を南下し、「加悦SL広場」で撮ったものです。ここは旧鉱山駅跡で、明治初期に造られた機関車をはじめ、27両もの鉄道車両が屋外に展示されています。
加悦SL広場

 加悦谷を更に南へ進むと、「与謝」という集落があります。私は初め「よさ」と読んでいたのですが、地元の方は「よざ」と発音します。次の写真は与謝から見た、酒呑童子で有名な大江山(おおえやま)連峰です。ここでも稲がよく実っています。
与謝からの大江山

 与謝の南の「与謝峠」を越えますと、福知山市雲原(くもはら)で、旧国名で言うならば、その先はもう「丹波」です。

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2008.09.09 Tuesday

加悦谷を行く 〈1〉

 これまで海岸に近い地域を中心に巡ってきました。丹後は海と切り離せませんが、内陸にもすばらしい場所が多くあります。

 その一つが、今日ご案内する「加悦谷」(かやだに)です。
 天橋立から見ると南西に位置する加悦谷は、大江山(おおえやま)山系を水源として阿蘇海へ注ぐ、野田川(のだがわ)の扇状地です。流域の岩滝町・野田川町・加悦町が2006年3月に合併して、与謝野(よさの)町となりました。
 この地域は、高級絹織物「丹後ちりめん」を基幹産業としています。丹後ちりめんの全盛期は昭和30年代と言われますが、今も業界関係者は多く、加悦谷では耳を澄ますと、機織りの音が聞こえてくることもしばしばです。最近は長年培われた技法を活かし、ポリエステルやレーヨンなどの繊維で織ることもできるそうです。
 次の写真は、加悦谷西部の「丹後ちりめん歴史館」で、この建物は元々老舗織物会社でした。館内では丹後ちりめんの歴史や工程を紹介してくれるほか、予約すれば手織り体験もできます。
丹後ちりめん歴史館

 加悦谷にはかつて鉄道が敷かれていました。1926(大正15)年に開業し、1985(昭和60)年に廃止された「加悦鉄道」です。次の写真は「旧加悦駅舎」で、現在の場所に移転・保存されることになりました。
旧加悦駅舎

 加悦谷のほぼ中央に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された「ちりめん街道」があり、ノスタルジー溢れる街並みが続いています。
 その中心地に「旧尾藤(びとう)家住宅」が建っています。同家は江戸後期には、生糸ちりめん問屋として活躍しました。邸内には蔵や座敷のほか、昭和初期の洋館など多くの見どころがあります。また季節ごとに展示内容が変えられ、四季の移ろいを感じます。
旧尾藤家住宅

 次回は、加悦谷の東部や南部まで、足を延ばしてみましょう。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.06 Saturday

黄金色の丹後

 このブログで丹後半島や舞鶴湾岸を巡っている間に、暑い夏が過ぎ、いつしか秋の気配が漂ってきました。

 この時季、丹後地方を回りますと、盛夏には緑の濃かった稲穂が、すっかり黄金色に色づいているのを目にします。
 私が子供の頃、稲の収穫は概ね彼岸の後だったように記憶しています。地元の方の話では、丹後では数年前の台風で大きな被害を受けたこともあり、台風が来る前に収穫を済まそうと、早稲(わせ)が多いのだとか。
 今、丹後の田舎道を走れば、ご覧のような風景が至るところに展開します。
大宮町の稔り

 丹後半島の北岸まで足を延ばしますと、青い海と、黄金の稲穂のコントラストが、実に綺麗です。
丹後町の稔り

 場所によっては、早くも稲刈りが始まっています。
加悦谷の稔り

 丹後米コシヒカリは、日本穀物検定協会の食味ランキングで、最高の「特A」に位置づけられた実績を持っています。確かに当地では、米も水も酒も、とても美味しく感じます。
 京野菜の中に、丹後を主要な生産地とするものも多いのですよ。

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2008.09.04 Thursday

大浦半島へ

 私見ながら、丹後地方で特に「海」を感じさせるのが、先にご紹介した「丹後半島」東岸・北岸と、舞鶴市東部の「大浦(おおうら)半島」だと思います。いずれも彼方には茫漠たる大海原しかないという、地理的な特徴がそう思わせるのでしょうか。

 東舞鶴の赤煉瓦建築を見た後、北上すると、トンネルを抜けたところに、「舞鶴引揚記念館」があります。
 軍港であった舞鶴は、第二次大戦後は引揚港に指定され、1958(昭和33)年まで、多くの出征兵士や在留邦人の帰国を迎え入れました。跡地は公園となり、1988(昭和63)年には様々な史料を展示した記念館が完成しました。
舞鶴引揚記念館
 公園内には、当時の引揚桟橋を象った展望台も設けられています。そこから舞鶴湾を眺めますと、長期の過酷な抑留生活を終えて母国の土を踏んだ人々、また彼らを出迎えた家族の、喜びや感動に思いを馳せずにはいられません。
 一方で、待ち焦がれる人が帰ってこなかった家族の落胆・悲嘆を思うと、ひどく心が痛みます。

 引揚記念館へ来るとき通ったトンネルを戻ると、すぐ交差点があり、そこを右(西)へ曲がると、ほどなく「舞鶴クレインブリッジ」という大きな吊橋(斜張橋)が見えてきます。全長735mで、市の名前に因んだのか、鶴をイメージさせる美しい姿です。
舞鶴クレインブリッジ

 橋を渡り、長いトンネルを抜けると、左(南)へ行けば、海釣りや海上プラネタリウムが楽しめる「舞鶴親海(しんかい)公園」、右(北)へ行けば、農業公園や自然食レストランの「舞鶴ふるるファーム」があります。
 次の写真は、親海公園内の、客船の形をした舞鶴発電所PR館「エル・マールまいづる」で、中にはプラネタリウムが設けられています。
 この地域は、家族連れや小グループにとって、なかなか楽しく過ごせる一帯だと思いました。
エルマールまいづる

 大浦半島は、若狭湾に突き出た大きな半島です。海岸から離れると随分山深く、中央部には名刹「多禰寺」(たねじ)や「舞鶴自然文化園」があります。
 自然文化園はなにしろ広大な敷地ですから、行楽客が多くても気にならず、四季折々の花をゆったりと楽しむことができます。園内を歩いていると時折、遥かに舞鶴湾が見えてきます。
舞鶴自然文化園

 自然文化園から北上して、若狭湾へ行き当たるところが「竜宮浜」(りゅうぐうはま)で、夏は海水浴場として賑わいます。伊根町の「浦嶋神社」といい、大浦半島の「竜宮浜」といい、丹後は海の伝説が実に身近なところです。
竜宮浜

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2008.09.01 Monday

東舞鶴を巡る

 前回も申しましたように、舞鶴市街は山地で幾つかに分かれています。今日は西舞鶴から更に東進し、東舞鶴を巡ります。

 元来、単なる入江にすぎなかった舞鶴湾の東部に、横須賀・呉・佐世保に続く軍港(舞鶴鎮守府)が完成したのは、1901(明治34)年、日露戦争の3年前のことでした(初代司令長官は東郷平八郎中将)。
 湾口が狭く湾内が広い地形が、防御に適し、多くの艦船を収容できると評価されたのです。
 第二次大戦後は大陸からの引揚港として、多くの出征兵士や在留邦人を迎え入れ、現在では海上自衛隊の基地が置かれています。自衛隊桟橋にはイージス艦などの新鋭艦もしばしば停泊しており、特に事情のない限り、土日曜・祝日には、近寄って艦船を見ることができます。
自衛隊桟橋

 自衛隊桟橋の東方には、明治30年代に建てられた赤煉瓦倉庫群が並び、独特の情緒が漂っています。これらの建物は当時、兵器庫など海軍施設として使われていました。現在でも多くが倉庫として使われ、一部は「舞鶴市政記念館」「赤れんが博物館」などとして公開されています。
赤煉瓦倉庫群

 一連の倉庫群から少し南へ行ったところに、「北吸隧道」(きたすい ずいどう)が残っています。やはり赤煉瓦が用いられ、かつては鉄道のトンネルでした(全長110m)。1972(昭和47)年に廃線となった後、自転車・歩行者専用道路として整備されています。
北吸隧道

 このあたりを散策しておりますと、明治以後、日本の辿って来た近代化の歴史が、垣間見えるようです。
 今日はここまでにして、次回は湾岸を北へ向かい、「舞鶴引揚記念館」や大浦(おおうら)半島を巡る予定です。

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