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2009.02.25 Wednesday

旧尾藤家の雛人形

 前回お伝えした「ちりめん街道」の中心に、「旧尾藤(びとう)家住宅」はあります。尾藤氏は江戸時代には大庄屋を務め、当主は代々「庄蔵」を名乗るようになりました。
 第10代庄蔵は明治時代、生糸ちりめん業の傍ら、丹後銀行頭取を務めました。また第11代庄蔵は大正から昭和にかけて、加悦鉄道社長や加悦町長も務めております。
 母屋は江戸時代末期に建てられ、白壁と虫籠窓に彩られています。その後、明治から昭和初年にかけ、蔵や座敷、洋館の増改築が相次ぎました。特に、昭和3(1928)年に建てられた洋館は、第11代庄蔵の強い思い入れがあったと言います。

 住宅内の展示は、季節ごとに一部入れ替えられ、四季の変化に応じて楽しむことができます。今の時季は、同家に伝わった雛人形が、玄関近くの部屋に飾られております。
 最初の写真は、第11代庄蔵の妻・つるの雛人形と、彼女の着物です。
つるの雛人形
 つるは兵庫県の豊岡で生まれ、明治38年に第11代庄蔵のもとへ嫁ぎました。そして昭和51年に90歳で亡くなるまで、ずっと加悦の尾藤家を守ってきたそうです。

 次の写真は、彼らの長女・千津の雛人形です。
千津の雛人形
 千津は大正12年、16歳の若さで病没しました。ですから、この雛人形が飾られた期間は、随分短かったことでしょう。

 雛人形を見せていただいた後、住宅の内部を見学しました。居間には、当時のラジオや電話機などが置かれています。
1階居間

 奥座敷を抜けて、階段を上がってみました。2階には洋風の書斎と応接室があります。これが第11代庄蔵の念願であった洋館の室内なのですね。
2階洋室
 今から80年も前、丹後にこのような洋室が完成していたことに驚きました。また当時の加悦谷の繁栄が、瞼に浮かぶ思いがしました。

Author : 天橋立ホテル | 冬の丹後 |

2009.02.19 Thursday

ちりめん街道

 数日前から急に寒くなりました。丹後でも雪が舞い、ようやく本来の冬に戻ったような気がします。
 今日は前回に引き続き、丹後の旧家を訪ねます。ご案内するのは、与謝野町加悦(かや)の情緒ある町並みです。このあたりは「加悦重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、一般に「ちりめん街道」と呼ばれております。

 「縮緬」(ちりめん)は生糸を原料とする白生地の絹織物で、京都・加賀の友禅や沖縄の紅型(びんがた)にも使われるなど、着物の素材の多くが縮緬でできています。当地の「丹後ちりめん」は、全国の白生地生産量の6割以上を占めるそうです。
 丹後ちりめんの特徴は「シボ」と、肌に馴染むしなやかな風合いです。「シボ」とは、糸に機械で強く撚りをかけて、予め作った生地の凹凸のことで、着るときに皺が生じるのを防ぎます。
 古来、絹織物の産地であった丹後地方で縮緬が作られ始めたのは、江戸時代中期(18世紀前半)に遡ります。京都・西陣で修業した職人が、縮緬の技術を持ち帰り、峰山と加悦でほぼ同時期に織り始めたのです。彼らは地元の人々に製法を惜しみなく伝えましたし、丹後は工程に欠かせない良質な水に恵まれていましたので、地域の新しい基幹産業として育っていきました。
 縮緬産業は昭和30年代に最盛期を迎え、岩滝・野田川・加悦・峰山・網野などの生産地は、好況に沸いたと言います。今では往時の隆盛はありませんが、時代のニーズに合った製品作りが行われており、これらの地域を歩きますと、どこからともなく機織りの音が聞こえてきます。

 次の写真は、ちりめん街道の中心部にある「旧尾藤(びとう)家住宅」です。同家は江戸時代後期には、生糸ちりめん問屋として活躍しました。
旧尾藤家住宅

 付近には、明治・大正・昭和にかけて建てられた商家・工場、洋風の医院、酒蔵、旅館などが軒を連ね、ノスタルジックな町並みが残っています。
ちりめん街道
 
 また街道沿いには、江戸時代に創建された寺院も点在しています。下の写真は、「実相寺」(じっそうじ:日蓮宗)、そして「宝巌寺」(ほうがんじ:浄土宗)です。
実相寺

宝巌寺
 ともに高い石垣の上に建つ堂々たる寺院で、下から見上げれば、形の良い山門が人々を迎えてくれます。
 これらの寺院は、雰囲気が周囲と全く異ならず、街道の落ち着いた家並みの中に、自然に溶け込んで存在しています。

 街道の南端に近い場所に「杉本(すぎもと)家住宅」があり、家の前に「縮緬発祥之地」の碑が立っていました。
杉本家住宅

 次回は、旧尾藤家住宅の内部の様子、飾られている雛人形などをご紹介します。

Author : 天橋立ホテル | 冬の丹後 |

2009.02.13 Friday

旧三上家住宅

 丹後地方に限らないと思いますが、暖かい2月がなお続いています。昨年の同時季に撮った写真を見ますと、雪の風景が多く、空も暗く、典型的な日本海側の冬を過ごしておりました。
 今月になってから、当地ではまだ雪が降っていません。雪の代わりに降るのは雨です。雪掻きは必要ありませんが、情緒も雪ほどでなく、私のように観光を生業にする者は、やはりこの時季は、雪景色を見ていただきたいという思いがします。
 前回のブログでご案内した世屋高原に引き続き、今回は当初、その北に広がる白銀の碇(いかり)高原をご紹介するつもりでした。しかしライブカメラを見れば、標高400mの高原にも拘らず、雪が殆ど融けて枯草が露出しています。そのような現況で、雪に覆われたときの情報を、強いてお伝えするのもどうかと考えました。
 丹後には、旧家のすばらしい住宅が幾つも残っています。それを巡ることにいたします。

 今日はまず、宮津市街にある「旧三上(みかみ)家住宅」です。昨年8月23日のブログで、宮津市街の見どころの一つとして、簡単にご紹介しております。
 三上氏は元禄時代創業の豪商で、屋号は「元結屋」(もっといや)といいます。酒造・廻船・糸問屋を営み、宮津の町政や藩財政にも深く関わりました。
 明治維新(戊辰戦争)時にはこの屋敷が、山陰道鎮撫総督・西園寺公望の宿舎となりました。建物が国の重要文化財に指定され、庭園も京都府指定名勝となっております。
旧三上家住宅

 主屋の入口をくぐりますと、土間の上部が吹き抜けになっており、太い梁や木組み、そして保存されている酒造のための施設が目に入ります。商家らしく、まず店舗部分があり、玄関で履物を脱ぎ、順路に従って奥へ進むのです。
 主屋は18世紀後半に完成し、19世紀前半にかけて増改築が繰り返されています。最も奥には「庭座敷」(にわざしき)があります。
庭座敷
 座敷の欄間には波間に躍る鯉が彫られ、長押(なげし)の釘隠しにも意匠が凝らされています。

 その室内から名勝の庭を眺めたのが、次の写真です。
名勝庭園
 住宅が狭い範囲に集積した宮津市街で、このような庭を見ておりますと、心が落ち着きますね。

 屋内を巡回し、台所近くの「奥座敷」(おくざしき)から玄関を振り返れば、商家の構造がよくわかりました。
奥座敷

 台所付近は、次のような雰囲気です。
台所

 この旧家の見学を終えたとき、かつて北前船で賑わった宮津の繁栄を、垣間見たような気がしました。

Author : 天橋立ホテル | 冬の丹後 |

2009.02.07 Saturday

雪の世屋高原

 2月に入ってからも、丹後地方は比較的暖かい日が続いております。先月下旬に降った雪は、さすがに殆どの地域で融けてしまいました。
 雪が積もれば、雪掻きや凍結で生活上は一苦労です。ただ野山が純白に装いを改めるのを見ておりますと、日常の風景とは違った、郷愁にも似た思いがよぎります。

 しかし今日現在でなお、45cmの積雪量を残しているところがあります(京都府道路情報提供システムによる)。「世屋(せや)高原」です。今回はそこをご案内します。
 実は、昨年10月7日のブログでこの高原を取り上げ、山里に稲が実り蕎麦の花が咲く、秋の様子をお知らせしました。
 冬となれば、風景が一変します。私が訪れた先月中旬は、折しも降雪の後で、雪深い山里の情緒が随所に溢れておりました。
 
 天橋立の南側から阿蘇海を周回し、北側の府中を通り過ぎ、国道178号線を更に北上します。宮津湾を若狭湾から仕切る栗田(くんだ)半島の北端が真横に見える頃、日置(ひおき)という集落に到達します。
 そこから国道を離れ、左方に府道75号線を進みますと、車道は山中へ吸い込まれるように延び、下世屋(しもせや)の集落を経て、次第に高度を上げていきます。周囲は全くの田園風景で、棚田も作られています。その中を走り抜ければ、やがて上世屋(かみせや)の集落へ到着します。
 次の写真は、集落を貫く道を上り、振り返って撮ったものです。
上世屋集落
 仲秋には稲穂が黄金色に実っていた田圃が、雪で一面覆われていますね。

 集落から先へは、ご覧のような雪道を進みます。
世屋高原への雪道
 除かれた雪が道路両端に押し上げられていますので、白銀一色の道ですが、ガードレールが補強されたようで、意外に走りやすいと思いました。除雪された方のご苦労に、頭が下がります。

 「家族旅行村」のあたりへ来たとき、若狭湾が下方に見えてきました。眼前の白雪、冬枯れの木々、その向こうに青い海、晴れた空が広がり、非常に清々しい気分になりました。
高原から若狭湾を望む

 除雪された道路は、やがて行き止まりとなっていました。そこから引き返し、次に木子(きご)集落への岐路へ車を進めました。
 この集落は周囲を山に囲まれた、高原の奥懐に営まれています。広大な田畑が耕され、高層湿原もありますが、この時季はすべてが雪の下です。写真は、集落手前の雪原を撮ったものです。
木子集落の雪原

 降雪後、この地域へ足を踏み入れますと、「非日常」を思いきり体験できるような気がします。

〔注〕 今は残雪が多くありませんが、世屋高原は一たび大雪が降ると1mくらい積もる、丹後地方でも最も雪深い地域です。行かれる方は、天気予報など充分にご注意ください。また降雪時、雪道の運転に慣れていない方へは、このコースはお勧めできません。

Author : 天橋立ホテル | 冬の丹後 |

2009.02.01 Sunday

新井の千枚田

 ここ数回のブログでは、天橋立・丹後の雪景色をご案内しております。
 最近は温暖化のせいか、年々積雪量が少なくなっていると、地元の方は言われます。確かに冬とはいえ、当地では頻繁に雪が降っているわけではありません。ただ降った雪は夜の間に凍り、なかなか融けないまま数日が過ぎるのです(道路は除雪されています)。

 少年時代を四国で送った私の記憶では、僅かな積雪でも一冬に1〜2度しかなく、しかも朝に一面の銀世界だとしても、昼頃には融けていました。ですから、たまたま数センチの積雪などあろうものなら、学校の休憩時間には運動場へ跳び出し、目を輝かせて級友と雪合戦に興じたことを思い出します。
 そんな私としては、本来は丹後地方の冬らしい雪景色を、次々と皆様にお知らせしたいのですが、そもそも雪の日がさほど多くないうえ、雪景色ばかり載せるのもどうかと思いましたので、1月11日のブログで立岩の様々な表情をお伝えしたのに倣って、今回も四季の移ろいをご紹介します。

 今日取り上げますのは、丹後半島東岸にある「新井(にい)の千枚田」です。
 舟屋で有名な伊根湾付近から北上しますと、国道178号線は海から遠ざかった山中を辿ります。途中で国道を離れて、東へ細い道を走れば、新井の集落に到ります。
 このあたりは、不老不死の仙薬を求める秦の始皇帝によって、東方の蓬莱島へ派遣された徐福(じょふく)が、上陸したと伝えられる地域です。この伝説は、紀伊半島の熊野をはじめ、全国各地に残されていますが、丹後でもこの地に伝わっているのです。「新井崎神社」には徐福が祀られています。
 私も伝説に惹かれ、新井崎の磯浜に立ってみました。真夏のことで、海は真っ青でした。今とは季節が違いますから、新井崎については、また折を見てお知らせします。

 さて、新井の千枚田です。集落の裏山斜面に、小さく仕切られた棚田が営まれています。田の傍から海を見下ろした風景を、四季折々に撮影してみました。今日はそれをご覧ください。

 まず晩春です。棚田には水が張られ、小さく稲の苗が見えます。沖に浮かぶ二つの島は、右が「冠島」(かんむりじま)、左が「沓島」(くつじま)です。
千枚田−晩春

 次は盛夏です。稲は既に、畦(あぜ)の草より高く育っています。
千枚田−盛夏

 続いて仲秋です。畦の草の色は変わらないのに、稲だけが黄金色に実っていますね。
千枚田−仲秋

 新年にも訪れてみました。先に降った雪が残っています。
千枚田−新年

 一旦雪を見れば、一面の銀世界も見たくなりました。機会を捉えて再訪した厳冬の光景が、次の写真です。
千枚田−厳冬

 季節によって海の色まで違うでしょう? 季節ごとの空の色を映しているのか、光線の強さが影響しているのか、カメラが捉える明暗の差が生じさせるのか、私には詳しくはわかりませんが、これも季節の移ろいの一つかと思います。

Author : 天橋立ホテル | 冬の丹後 |