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2008.08.29 Friday

西舞鶴付近

 舞鶴市は明治以来、幾度も周辺町村が合併し、現在の市域になりました。
 舞鶴湾という天然の良港に恵まれ、明治30年代には、東部に軍港(海軍・舞鶴鎮守府)が置かれました。今でも貿易や漁業の西舞鶴、自衛隊桟橋や煉瓦建築の東舞鶴と、街の雰囲気も大きく異なります。
 前回の由良から、今回は西舞鶴へ足を延ばしてみます。

 最近来客が増えた施設に、舞鶴市西部の「道の駅舞鶴港とれとれセンター」があります。その名のとおり水揚げされた魚介類が店内に並べられ、自分の食べたい魚や貝を買うと、その場で焼いてくれて、すぐに食べることができます。野趣溢れる雰囲気が人気なのでしょう。いつも昼頃には多くの来客で賑わいます。
 その前の国道175号線を東進し、出合う国道27号線を南下しますと、西舞鶴駅に近いところに、「田辺(たなべ)城跡」があります。
 元々は、宮津を本拠とした細川幽斎が、隠居後の城として築いたもので、関ヶ原の合戦時の籠城戦で有名です。江戸時代に城主が幾度か変わり、明治初年に廃城となりましたが、1992(平成4)年に現在の城門が完成しました。資料館もあり、歴代城主や市史を紹介しています。因みに、田辺城の雅称が「舞鶴(ぶかく)城」で、これが後に市の名称となったそうです。
田辺城城門

 次の写真は、奈良時代に行基が開創したと伝わる古刹「円隆寺」(えんりゅうじ)で、西舞鶴駅の西方に建っています。その北側には、桂林寺(けいりんじ)ほか多くの神社仏閣が並びます。
円隆寺

 舞鶴市の市街地は、山地で幾つかに分けられています。そんな山の一つが「五老ヶ岳」(ごろうがたけ)で、展望台(海抜325m)からは舞鶴湾が一望できます。近畿百景の第1位にも選ばれました。
五老ヶ岳からの舞鶴湾

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.26 Tuesday

奈具海岸から由良へ

 今回は、宮津から東へ向かってみましょう。

 宮津市街から車で国道178号線を東へ進み、栗田(くんだ)半島の付け根を走り過ぎると、ある瞬間、劇的に雄大な海原に出合います。このあたりを「奈具(なぐ)海岸」と言います。
 宮津湾の周囲が陸地に囲まれているのに対し、奈具海岸は若狭湾の奥ながら、日本海の水平線が遥かに見えて、非常に開放的な印象です。その名はさほど知られていませんが、宮津と舞鶴の間にあって、丹後地方が日本海沿いにあることを実感させる、ロマン溢れる風光明媚な海岸だと、私は思います。
奈具海岸

 断崖に沿って数分ほど海岸道路を走ると、由良(ゆら)の「汐汲浜」(しおくみはま)に着きます。森鷗外の小説「山椒大夫」で有名なところで、いかにも安寿が潮を汲んでいたことを彷彿させるような名前です。
由良の汐汲浜

 現在は海水浴場となっている由良海岸に沿って国道を行き、由良川を遡れば、まず左側に「由良川橋梁」が架かっています。1924(大正13)年に完成したという鉄橋で、川幅は約550mもあります。川面からの高さが僅か3mほどの橋なので、水量が多い滔々とした流れを列車で渡ると、まるで水上を滑っているようです。
由良川鉄橋

 鉄橋から国道へ戻ってほどなく、今度は右手に「安寿と厨子王の像」が見えてきます。森鷗外の小説では、丹後を逃れて都へ上った厨子王は、関白・藤原師実(もろざね)に出会います。師実といえば、藤原氏全盛期を築いた道長(みちなが)の孫、頼通(よりみち)の子ですから、平安後期(11世紀終盤)の時代設定でしょうか。
 そのまま史実とは言えないにしろ、古代以来の長い歴史を誇る丹後を舞台とした、一挿話ではあります。
安寿と厨子王の像

 由良川を更に遡り、次の橋を右岸へ渡ると、山裾に「安寿姫塚」があるのですよ。塚の傍には大きな池まであり、池畔に佇むと、自らを犠牲にして弟を逃がした安寿が、実際にここへ身を投げたかのように思えて、哀しい気分になってきました。
安寿姫塚の池

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.23 Saturday

宮津市街を歩く

 再び天橋立へ戻って、今回は東の宮津市街を歩いてみます。
 宮津は古来、丹後国の中心地でした。戦国時代末期、細川幽斎(ゆうさい)が宮津に城を築き、城下町ができました。江戸時代になり、藩主は京極氏から幕末の本庄氏まで、度々変わりましたが、北前船の寄港地であったのをはじめ、近世・近代と繁栄を続けました。
 現在の宮津市は、天橋立の南と北に市域が広がっています。人口は2万人ほどに過ぎないものの、宮津駅の西の狭い範囲に住宅が密集していますので、中心部の集積は高いと思います。
 一般に市街地というと、コンクリートのビルが建ち並ぶと思いがちですが、宮津駅から西の旧市街(本町通り)などを歩きますと、木造家屋が多く、ノスタルジーに満ちており、古き良き時代が偲ばれます。
 ブログでは、具体的に道筋をご案内するのは困難ですから、ホテルや観光案内所などにある散策マップをご覧ください。ここでは、幾つかの見どころを写真でご紹介します。

 まず市街の西方にある「山王宮日吉(さんのうぐう ひよし)神社」です。滋賀県大津市の日吉神社を勧請したもので、5月15日の例祭が「宮津祭」と呼ばれ、浮太鼓(うきだいこ)・太神楽(だいかぐら)・神輿還御(みこしかんぎょ)が行われます。
山王宮日吉神社

 次は、市街地の中にある「旧三上(みかみ)家住宅」(重要文化財)です。元禄時代創業の豪商で、かつて酒造・廻船・糸問屋を営み、宮津の発展に大いに尽くしました。明治維新時にはこの屋敷が、山陰道鎮撫総督・西園寺公望の宿舎となりました。邸内の庭や座敷・台所など、見どころも豊富です。
旧三上家住宅

 宮津市街の南西部・金屋谷(かなやだに)には、俳人・与謝蕪村が3年間も滞在したという「見性寺」(けんしょうじ)、徳川綱吉の生母・桂昌院の実家である本庄家の菩提寺「大頂寺」(だいちょうじ:下の写真)など、多くの寺院が建ち、寺町を形成しています。
大頂寺

 宮津市役所の西側には、「カトリック宮津教会」が建っています。1896(明治29)年の建築で、フランスから宮津へやって来たルイ・ルラーブ神父のもとで献堂式が行われました。長崎の大浦天主堂に次ぎ、国内で2番目に古い教会です。堂内には畳が敷かれていて、当時の礼拝の様子が窺えます。堂内は、ミサや礼拝時を除き、見せていただけます。
カトリック宮津教会

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.20 Wednesday

経ヶ岬から立岩へ

 今回も引き続き、丹後半島を巡ります。

 最北端の経ヶ岬から西へ、国道178号線を車で走りますと、最初に現れるのは、袖志(そでし)という集落で、海岸近くの道路に沿って、民家が軒を並べています。家並みの背後の山腹には、見事な棚田が営まれており、「日本棚田百選」にも名を連ねているところです。
 車を一旦降りて、棚田の間を縫う農道から見下ろせば、海と、浜辺に迫る田と、それらに挟まれるように集まる家々が、非常に印象的です。
袖志の棚田

 袖志の西隣には、尾和(おわ)という集落があります。袖志に比べてなだらかな地形になりますが、やはり海の傍まで水田が作られていて、特徴ある形の犬ヶ岬(いぬがみさき)が遥かに見えてきます。
尾和からの犬ヶ岬

 国道は時折大きなカーブを描き、美しい砂浜と荒々しい磯浜が、入れ替わり右側に現れます。
 犬ヶ岬の手前に、「丹後松島」(たんごまつしま)という展望の名所があります。これまで通って来た砂浜・磯浜の景色をここから振り返ると、海に小島の浮かぶ「陸奥松島」に似ていることから、こう呼ばれるのでしょう。
丹後松島

 犬ヶ岬のトンネルを抜けると、ほどなく「屏風岩」(びょうぶいわ)が見えてきます。波の浸食でできた、高さ13mの奇岩です。
 更に進めば、「立岩」(たていわ)があります。玄武岩で柱状の割れ目があり、高さは20mです。春から夏は一般に波が穏やかですが、晩秋から冬にかけて日本海が荒れると、この岩より高い波しぶきが上がることも珍しくありません。
 屏風岩と立岩の夏の写真は、7月23日のブログでご紹介しております。

 立岩のあるあたりには、竹野川(たけのがわ)が流れ込みます。近くには第9代開化天皇の妃・竹野姫(たかのひめ)が天照大神を祀ったのに始まるとされる「竹野(たかの)神社」や、日本海三大古墳の一つ「神明山(しんめいやま)古墳」(全長190m、5世紀初頭)などがあり、古くから開けた地域であったことが窺えます。

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.17 Sunday

伊根から経ヶ岬へ

 昨夜は、宮津で「灯篭流し花火大会」が行われました。この催しは、いかにも行く夏を惜しむ風物詩という趣がします。あいにく断続的に雨に見舞われたのが残念でした。
 今日は前回に引き続き、丹後半島東部をご案内します。

 伊根の「舟屋の里公園」を自動車で出発して、まもなく出合う国道178号線は、蒲入(かまにゅう)から経ヶ岬(きょうがみさき)へと繋がる道です。
 公園からしばらくは、半島とは思えないほどの山中を進みます。JA伊根支店前を過ぎれば、ほどなく浦島太郎に因む「浦嶋(うらしま)神社」が右手に見えてきます。
 この伝説は日本各地に残っていますが、丹後のものが最古とされ(丹後国風土記)、平安時代初期には既に、筒川(つつかわ)大明神として祀られていたそうです。
浦嶋神社

 神社から国道へ戻り、北上を続けると、道は再び山中を走ります。下り坂を進むうちに、蒲入漁港が見えてきます。ここまで来ると、経ヶ岬もそんなに遠くありません。
蒲入漁港

 漁港を過ぎたら、その先は断崖の道となります。このあたりは「カマヤ海岸」と呼ばれ、美しい海岸線が続きます。ところどころに設けられた展望所から海を覗き込むと、水が澄み、海底まで透き通って見えるのですよ。
カマヤ海岸

 断崖の道を進むうちに、伊根町から京丹後市へ入ります。「経ヶ岬レストハウス」の手前を右折すれば、やがて経ヶ岬の駐車場へ行き着きます。車を降りたとき、見えるのは広漠たる大海原です。ここは近畿地方の最北端なのです。
 駐車場の奥の方まで歩いて振り返ると、白亜の灯台が見えました。全国に6台しかない、第一等レンズを使用しているそうです。
経ヶ岬

 今回は、国道178号線に沿った地域を巡りました。
 舟屋の里公園から国道を進まず、東側の海岸近くを走りますと(道は細いのですが)、秦の徐福が上陸したと伝えられる「新井崎」(にいざき)、断崖が美しい「のろせ海岸」、入江の海水浴場「泊」(とまり)、沖に若狭湾の島が見える「本庄浜」(ほんじょうはま)など、珠玉のような風景が次々と展開します。
 機会がありましたら、こちらもお楽しみください。

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.14 Thursday

天橋立から伊根へ

 今日は天橋立から、丹後半島東部の伊根(いね)への道をご紹介しましょう。

 天橋立の砂嘴を貫く松並木の道は、自動車の通行が禁止されていますから、そこでは散策やサイクリングを、安心して楽しむことができます。
 一方、バスや自動車で、天橋立の南端・文珠(もんじゅ)から北端・府中(ふちゅう)へ行かれるには、阿蘇海に沿って、西へ回っていただかなくてはなりません。バスで行かれるなら、丹後海陸交通の路線バスが、府中を経て伊根や、その奥の経ヶ岬(きょうがみさき)まで運行されています。

 道路は宮津市から一旦は与謝野町へ入り、再び宮津市となります。民家や田畑の間から、阿蘇海を挟んで天橋立の松林が見えます。阿蘇海北岸には「丹後郷土資料館」があり、丹後の風土を知るにはお勧めの施設だと思います。
 更に進まれると、天橋立の北端へ到着します。このあたりを「府中」というのは、かつて丹後国府があったと言われているからです。府中には、天橋立の股のぞきで有名な傘松公園や、丹後一の宮の元伊勢「(この)神社」があります。
 私は丹後へ来るまでは、失礼ながら籠神社がそんなにすごい神社とは知りませんでした。丹後随一の神社とは聞いていたのですが、日本古代史の通説を覆すかもしれない、最古の家系図(海部氏系図:国宝)が伝わっています。
 当地へ来て、「古代丹後王国」関係の書物を読んでいると、初期ヤマト王権を主導したのは、丹後の勢力ではなかったかとも思えてきます。
元伊勢籠神社

 府中からは宮津湾に沿って、国道178号線を北上します。進むほどに、右手に海が広がってきます。好天に恵まれた朝、陽光に煌めく青い海を見ると、心が浮き立ちますね。
朝日に煌く海

 自動車で天橋立から府中までは15分、府中から伊根までは25分というところです。
 国道の標識に従って、伊根の町へ入ります。伊根は舟屋(ふなや)で有名ですが、海から直接、船を民家の1階へ収容できるようにした構造で、現在約230軒の舟屋があると言われています。
伊根の舟屋

 私の経験では、舟屋を間近に見るには、伊根湾に沿った旧道を進まれるか、湾内巡りの遊覧船に乗られるのがよいと思います。また、伊根湾全体を眺めるには、高台にある道の駅「舟屋の里伊根」(舟屋の里公園)からがよいと思います。
伊根湾を望む

 伊根からはお時間があれば、そのまま丹後半島を北上され、蒲入(かまにゅう)漁港から経ヶ岬まで行かれることをお勧めします。
 更には西へ、日本棚田百選に名を連ねる袖志(そでし)、丹後松島や屏風岩など、美しい海浜風景を眺めながら旅を続けられるならば、丹後の夏を存分に満喫していただけることでしょう。
 伊根から先については、稿を改めてご紹介します。

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.12 Tuesday

天橋立を歩く

 前回は、様々な場所から見た天橋立をご紹介しました。
 今日は、天橋立ホテルから智恵の文殊菩薩で有名な「智恩寺」(ちおんじ)、船が通るとき橋が回転する「廻旋橋」(かいせんきょう)を経て、天橋立の砂嘴の「松並木の道」をご案内します。
 天橋立の全長は3.6kmですが、そのうち智恩寺近くの廻旋橋から北端の府中までは2.5kmですから、これなら40分程度で歩くことができます。
 天橋立は遠くから眺めると、海上に砂嘴が延びるすばらしい景観です。しかしそれだけに限らず、お時間があれば端から端まで歩いてみられるのも、非常におもしろいご経験になろうかと思います。

 当ホテルは内海の阿蘇海に臨んでおり、お部屋から天橋立の眺望を存分にお楽しみいただけます。更に、その風景の中へ散策に出かけられるにも、極めて便利です。
 当ホテルの裏手から阿蘇海に沿って進んでいただきますと、智恩寺がすぐ近くにあります。寺院そのものは平安時代創建と伝わっており、室町時代に建立された多宝塔、江戸時代初期に改修された本堂(文殊堂)が目を引きます。山門は江戸時代中期に再建され、別名を「黄金閣」(おうごんかく)という堂々たる楼門です。
智恩寺山門

 智恩寺の北東には、天橋立の南北を結んで阿蘇海を行く、観光船の船着場があります。観光船は、片道12分ほどで天橋立の両端を航行します。
 船着場を横に見て、智恩寺山門をくぐり、門前に並ぶ土産物などの店の間を通ると、左に「廻旋橋」が架かっています。その下の水路を船が近づいてきたら、橋桁が回転して船を通すのです。
廻旋橋

 橋を渡れば、天橋立の「松並木の道」です。
 天橋立には数千本の松の木が並び、中には固有の名を持つ名松もあります。また「磯清水」や「岩見重太郎仇討の場」などの名所旧跡も点在します。天橋立地区のホテル旅館には、散策マップもご用意しておりますので、お気軽にお出かけください。
 散策の道は、次の写真のように、思いのほか幅が広いのですよ。
天橋立の松並木

 松並木の間からは随時、阿蘇海や宮津湾を垣間見ることができます。散策の途中で海辺へ立ち寄ってみられるのも、一興でしょう。
宮津湾の浜辺

 散策を終えれば、そのまま付近を観光されるのもよし、或いは再び歩いたり観光船に乗ったりして、出発点へ戻られるのもよし、思いのまま天橋立を楽しんでいただけるかと存じます。

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.09 Saturday

天橋立−様々な景観

 最近は丹後半島北岸など、足を延ばして見ていただく内容が多かったので、今回は近接する天橋立を、しっかりご紹介したいと思います。

 天橋立は「日本三景」の一つと言われています。日本三景という言葉ができたのは江戸時代初期とされていますが、そもそも天橋立という地名は更に古く、平安時代中期に和泉式部(いずみしきぶ)の娘・小式部内侍(こしきぶのないし)が詠んだ、次の和歌があまりにも有名です。

 「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」(小倉百人一首)

 歌人として名高い母・和泉式部が、夫・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の任地である丹後へ下っていたとき、都にいた娘・小式部内侍は、歌合せの会で「丹後のお母さんに代作を頼む使者は出しましたか?」という、意地悪い質問を受けました。彼女の歌は、実は母が密かに作っているのではないかと、人々は噂をしていたのですね。
 上記の歌は、その質問に答えて詠んだものとされ、「大江山や生野(福知山近郊の地名?)を越えていく道のりは遠いので、まだ母のいる天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」という意味だそうです。「行く野=生野」「文=踏み」の掛詞や当意即妙の応答が、一挙に彼女の評判を高めたと伝えられています。

 個人的な感想ですが、私は天橋立に赴任する前、休日にはよく京都を探索していました。今思い出してみると、和泉式部は京都市街や貴船に足跡を残し、武勇で知られる藤原保昌は、保昌山(ほうしょうやま)という祇園祭の山に名を留めています。京都から丹後へ赴任した彼らは、私自身に重なる点もあり、何か他人でないような気がしてきました。

 さて、天橋立は見る場所によって、様々に姿を変えます。まず股のぞきで有名な、北側の小高い「傘松(かさまつ)公園」からの風景です。その形から「斜め一文字」とも言われます。
斜め一文字

 次は南側の「天橋立ビューランド」からの眺めで、「飛龍観」(ひりゅうかん)と呼ばれます。そう言えば、龍が身をくねらせて天へ昇るようですね。
飛龍観

 もう一つ、西側の「大内(おおち)峠」からの眺めです。天橋立が少々遠いながら、横に細長く一文字に見えるので、「一字観」(いちじかん)と称します。
一字観

 他にも、東側の獅子崎(しいざき)稲荷神社からの眺めが、雪舟の絵の視点に似ているところから「雪舟観」(せっしゅうかん)と名付けられ、また宮津市街の西−滝上(たきがみ)展望台からの「弓ケ観」(ゆみがかん)も名所とされています。
 但し、雪舟観は私が見た限りでは、樹木が茂って天橋立全体が見通しにくい状態でした。弓ケ観にはまだ行ったことがありませんので、他日を期したいと思います。

 最後に、我が天橋立ホテルの客室からの眺望をご紹介します。手前の内海・阿蘇海(あそかい)を隔てて、なかなか良い眺めでしょう?
天橋立ホテルから

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.08 Friday

丹後−夏の海 〈3〉

 京都府北部の舞鶴市・宮津市・与謝野町・伊根町・京丹後市を、「丹後地方」と一般に呼んでいます。この地域は、古の律令制下では「丹後国」(たんごのくに)でした。
 天橋立は、この丹後地方のほぼ中央にあります。ここから自動車で出発しますと、域内の至るところへ、概ね1時間半以内で行くことができます。
 私は時間を見つけては、丹後地方のあちらこちらを巡っています。今日は、天橋立の北にある丹後半島の典型的な海浜風景を、幾つかご紹介します。

 丹後半島は日本海に突き出した大きな半島で、まず写真のような荒々しい磯浜があります。
砂方海岸

 また、海岸線のすぐ傍まで耕されている田畑もあります。稲の緑は美しい色ですね。
海辺の田畑

 そして穏やかな砂浜が、青い海や空を背景に目の前に広がります。以前にもブログで触れましたが、丹後半島の砂浜の殆どは、白い砂が続いています。これが海の色を明るくコバルトブルーに輝かせる、大きな要素だと思います。
琴引浜

 白砂の浜辺に佇めば、こんなに澄んだ海水が寄せてくるのです。近畿地方の北にこのような海があるのを、私も丹後へ来て改めて知りました。
八丁浜

 他にも、入江に隠れるように漁港が点在し、それを囲むように集落が営まれています。
 観光地を巡るだけでなく、ありのままの丹後を見て回れば、それだけでゆったりとした気持ちになれますね。それが丹後の魅力でしょうか。

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.04 Monday

丹後−夏の海 〈2〉

 8月になり暑さが続くと、日本海沿岸の丹後地方では、空が晴れわたり、海が青く輝く日が多くなります。
 丹後へ来て、海の青さに驚いた私は、なぜこんなに海が鮮やかな色なのか考えました。理由の一つは海水が澄み、砂が白い浜辺が多いからでしょうか。もう一つは海が北にあり、太陽を背に海を見るからでしょうか。誤っているかもしれませんが、自分ではこう考えて納得しています。

 海に囲まれた日本ですが、多くの浜辺には工場やら人工物があり、自然に身をゆだねてゆったりと海を眺めるのは、特に都会人には難しいと思います。しかし、丹後の海岸には思う存分、自然があります。国道178号線を走っていると、このような風景を眺めながらドライブできることが、すごく贅沢な気がします。
 私は丹後を、「初めてでも何か懐かしい、緩やかな時間が流れる、心のふるさと」と思っています。四季折々の豊かな表情を、都会生活を送る方々にも、ぜひ見ていただきたいと願っています。
 今日の写真は、丹後半島北岸の海水浴場です。たとえ海水浴をされなくても、このような美しい色の海を眺めるだけで、真夏の旅を充分に楽しめることでしょう。

琴引浜(掛津海水浴場)

八丁浜(浅茂川海水浴場)

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |

2008.08.01 Friday

夏の夜の行事

 いよいよ8月になりました。
 既にブログに書きましたように、丹後の夏は想像以上に明るく輝いているのです。入道雲が湧く空や青く煌めく海、木々や稲の緑が目に優しい野山、これらが訪れる人々を迎えてくれます。
 昼は暑くても、夜には概ね気温が下がります。都会のような熱帯夜は殆どありません。やはりアスファルトに覆われている面積が広くなく、水や土が露出しているからでしょうか。
 また夏の夜には、多くの祭礼やイベントが行われます。都会にいると暑さを嘆くばかりで忘れがちな季節の営みが、日本海に面した当地では脈々と受け継がれています。
 今日は、私が昨年の夏に見た、天橋立や丹後の夏の夜の行事を、二つご紹介します。これらはともに今年も行われますので、ぜひご覧ください。

 まず「天橋立・炎の架け橋」です。昨年は7月下旬に行われましたが、今年は8月2日(土)です。午後7時半、天橋立の砂浜に並べられた300本の篝火に一斉に点火され、約30分間、天橋立が夏の夜の闇に浮かび上がります。
 この写真は大天橋東側の波打際で撮ったものですが、ビューポイントとしては他に、小天橋や天橋立ビューランドなどがあります。
天橋立・炎の架け橋(大天橋にて)

 そして「宮津の灯篭流し」です。日本三大灯篭流しの一つとされ、例年8月16日の夜に催されます。今から約400年前、細川幽斎(ゆうさい)が宮津に城を築き城下町が形成された頃、人々が盆に迎えた先祖の霊を再び極楽浄土へ送るため、供物に灯を添えて海に流したのが起源と言われています。
 初盆の家から精霊船が流され、それを囲むように万余の灯篭が海を漂います。その後、花火が華やかに打ち上げられ、老若男女が一斉に夜空を仰ぎます。
 私は宮津で初めて海上の花火を見て、海と花火がこんなにもよく合うのかと驚きました。涼しい海風が花火の煙を吹き払うとき、行く夏を惜しむ気持ちが湧き起こり、これこそ日本の夏だと実感します。
宮津・灯篭流し

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |