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2008.09.26 Friday

琴引浜から夕日ヶ浦へ

 前回に引き続き、日本海を眺めながら、西へ向かいます。

 「琴引浜」(ことひきはま)は美しい砂浜が広がり、一部では岩床も顔を見せています。
 前回も触れましたように、地元の方々が随分力を尽くされ、美しい環境が維持されています。他の海岸では漂着物を目にすることがありますが、この浜では美しさが保たれ、人工物も殆ど見えません。
浜に寄せる波

 網野の市街地の北には、「八丁浜」(はっちょうはま)という弧状の砂浜が続いています。
 遠浅の海岸では、夏は多くの人々が海水浴を楽しみ、他の季節もサーファーが波乗りをしています。また、ご覧のように海のすぐ近くで、サッカーをすることもできます(有料)。
八丁浜シーサイドパーク

 丹後半島を周遊するときによく利用する国道178号線は、網野からしばらく内陸を通ります。
 そこで国道から離れて、海沿いの道を行けば、「」(いそ)という集落に着きます。ここは源義経の愛妾・静御前(しずかごぜん)の出生地と言われています。母の磯禅師(いそのぜんじ)ともども白拍子(しらびょうし)として、京の都で活躍しました。
 義経が兄・頼朝と争い、吉野山で義経とはぐれた静は、鎌倉へ連行され、そこで我が子も殺されます。静は失意のうちに故郷の磯へ帰り、短い生涯を終えたとの伝承が、丹後では語り継がれています。
 次の写真は、静神社近くに造られた展望台から、磯の集落を眺めたものです。
磯海岸

 磯海岸から西へ断崖上の道を進むと、やがて「五色浜」(ごしきはま)という、大規模な波食台(砂地のない平らな岩床)への道が分岐しています。その坂道を下りたところには、遊歩道が設けられ、公園として整備されています。
五色浜

 元の道へ戻って西進し、浜詰(はまづめ)の町へ下りてきたあたりに、「夕日ヶ浦」(ゆうひがうら)という場所があります。
 その名のとおり夕日が美しい浜辺で、「日本の夕陽百選」にも選ばれています。私も優美な名前に惹かれて、好天の夕刻に訪れてみました。海に落ちる夕日は本当に感動的です。
夕日ヶ浦の落陽

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.22 Monday

間人から琴引浜へ

 久しぶりに丹後半島北岸を訪ねましょう。今日ご案内するのは、間人(たいざ)から琴引浜(ことひきはま)にかけての海岸線です。
 8月には海水浴客で賑わったこの地域も、秋になるとすっかり落ち着きを取り戻します。

 「間人」と書いて「たいざ」と読む理由については、地元に次のような伝承が残されています。
 6世紀末に蘇我氏と物部氏が対立して争乱が起きたとき、この地に聖徳太子の母親・間人(はしうど)皇后が、幼い太子とともに避難してきたと言われています。彼らの血筋は蘇我氏系であり、ここはその領地だったのですね。
 やがて乱が終息し、大和へ帰る皇后は、世話になったこの地に、自分の名を贈りました。しかし村人は、直接「はしうど」と呼ぶのは恐れ多いと、皇后が退座したことに因んで、「たいざ」と読んだそうです。
 現在、皇后と太子の像が、立岩の傍で海を眺めるように立っています。
間人皇后と聖徳太子
 この地には漁港があり、冬の味覚「間人ガニ」で有名です。

 間人漁港から海岸線に沿って西進すると、「城嶋」(しろしま)という小さな島が陸地に隣接しています。
 戦国時代には城塞があったそうで、夏は青い海が広がりますが、冬など荒れる日本海の波濤が押し寄せて、城兵の心細さは如何ばかりかと思いました。
城嶋

 更に西へ進むと、丹後地方の典型的な風景を見られる、なかなか風光明媚な海岸線が続きます。次の写真は逆光の下、眼前の磯浜を撮ったものです。
砂方海岸

 この海岸の先には、「琴引浜」があります。
 鳴き砂で有名な美しい砂浜で、「日本の渚百選」にも選ばれています。好天の日、砂浜を歩くと、石英の粒が振動してクックッという音がします。
琴引浜
 ゴミなどの不純物が砂に混じると、音が鳴らなくなるため、地元では美しい状態を保全すべく、懸命に努めています。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.17 Wednesday

大江山に登る

 加悦谷から見ると、いつも「大江山」(おおえやま)が目に入ります。今日は鬼退治で名高い、この山の一端をご紹介します。

 大江山は古来、源頼光(みなもとのよりみつ)が酒呑童子(しゅてんどうじ)の討伐に赴いた伝説で有名です。一行には、和泉式部の夫・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)や、金太郎こと坂田金時(さかたのきんとき)が含まれていたとされています。
 大江山の東側の山麓には「鬼」をテーマにした「日本の鬼の交流博物館」があり、私は興味津々、見せていただきました。
鬼の交流博物館

 私が大江山に登ったのは、この7月です。4月に、羽衣天女伝説が伝わる「磯砂山」(いさなごさん 661m)に登って以来、丹後では2回目の山歩きとなりました。
 元々山歩きが好きな私ですが、このように丹後へ来てからは、あまり頻繁に歩いてはいませんでした。そこで大江山に登るにしても、まずは足ならしをしようと、できるだけ高低差の少ないルートを探しました。大江山は連峰で、幾つかの峰があります。どうせ登るなら、最高峰の「千丈ヶ嶽」(せんじょうがたけ 833m)を目指したいと思いました。
 地図を見ていますと、東側の山腹にある「鬼嶽(おにたけ)稲荷神社」まで車で行けば、実際に歩いて登る高低差は、200m程度らしいのです。まずここをアタックすることにしました。また一人で登山する場合、万一熊に出合うと困るので、効果のほどはわかりませんが、鈴を持っていくことにしました。

 決行当日、朝早く起きて車を走らせ、鬼嶽稲荷神社の駐車場に車を停めて、山道に足を踏み入れました。コースは整備され、両側にはご覧のような木々や熊笹が茂っています。
大江山登山道

 鬼嶽稲荷神社からの登山道が快適なので、30分足らずで千丈ヶ嶽の頂に着きました。
 山頂は平坦で、西側に視界が開けています。また北の鳩ヶ峰・鍋塚、南の赤石ヶ岳と、同じ大江山連峰をなす峰々への道が続いています。
千丈ヶ嶽山頂
 あまりに早く山頂へ着いたものですから、さすがに少々物足らない気がしてきました。一旦車に戻り、山裾を半周して、今度は西側山腹の「加悦双峰(そうぼう)公園」から、同じ山頂をもう一度目指してみたくなりました。

 車を走らせ、福知山市大江町を経て、与謝(よざ)峠から加悦谷へ入ります。与謝の集落から双峰公園への車道を上り、終点に車を停めて、登山道を歩き始めました。
 次の写真は、登山道の途中から見た千丈ヶ嶽です。このあたりの標高は600m弱だと思います。
双峰公園からの大江山

 つい先ほど山頂に立ったことでもあり、無理をせず、気軽に行けるところまで行こうと思っておりましたら、路傍に「熊出没注意!」の標識を見つけ、今回はここで断念しました。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.14 Sunday

加悦谷を行く 〈2〉

 加悦谷の中央部を東へ行けば、「古墳公園」があります。日本海三大古墳の一つ「蛭子山(えびすやま)古墳」と、それに隣接する「作山(つくりやま)古墳」が公園となっているのです。
 特に蛭子山古墳は、全長が145mもある前方後円墳で、埴輪を持つ古墳としては丹後で最初のものです(4世紀後半)。作山古墳は30m級の5基の古墳で、形も様々です。
古墳公園
 日本海三大古墳としては、ほかに網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳、神明山(しんめいやま)古墳が知られており、ともに丹後半島北岸にあります。
 「古代丹後王国」という言葉がありますが、大きな古墳を目の当たりにしますと、紀元前後から5世紀頃の丹後で何が起きたのだろうと、歴史ロマンをかき立てられますね。

 次の写真は、加悦谷を南下し、「加悦SL広場」で撮ったものです。ここは旧鉱山駅跡で、明治初期に造られた機関車をはじめ、27両もの鉄道車両が屋外に展示されています。
加悦SL広場

 加悦谷を更に南へ進むと、「与謝」という集落があります。私は初め「よさ」と読んでいたのですが、地元の方は「よざ」と発音します。次の写真は与謝から見た、酒呑童子で有名な大江山(おおえやま)連峰です。ここでも稲がよく実っています。
与謝からの大江山

 与謝の南の「与謝峠」を越えますと、福知山市雲原(くもはら)で、旧国名で言うならば、その先はもう「丹波」です。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.09 Tuesday

加悦谷を行く 〈1〉

 これまで海岸に近い地域を中心に巡ってきました。丹後は海と切り離せませんが、内陸にもすばらしい場所が多くあります。

 その一つが、今日ご案内する「加悦谷」(かやだに)です。
 天橋立から見ると南西に位置する加悦谷は、大江山(おおえやま)山系を水源として阿蘇海へ注ぐ、野田川(のだがわ)の扇状地です。流域の岩滝町・野田川町・加悦町が2006年3月に合併して、与謝野(よさの)町となりました。
 この地域は、高級絹織物「丹後ちりめん」を基幹産業としています。丹後ちりめんの全盛期は昭和30年代と言われますが、今も業界関係者は多く、加悦谷では耳を澄ますと、機織りの音が聞こえてくることもしばしばです。最近は長年培われた技法を活かし、ポリエステルやレーヨンなどの繊維で織ることもできるそうです。
 次の写真は、加悦谷西部の「丹後ちりめん歴史館」で、この建物は元々老舗織物会社でした。館内では丹後ちりめんの歴史や工程を紹介してくれるほか、予約すれば手織り体験もできます。
丹後ちりめん歴史館

 加悦谷にはかつて鉄道が敷かれていました。1926(大正15)年に開業し、1985(昭和60)年に廃止された「加悦鉄道」です。次の写真は「旧加悦駅舎」で、現在の場所に移転・保存されることになりました。
旧加悦駅舎

 加悦谷のほぼ中央に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された「ちりめん街道」があり、ノスタルジー溢れる街並みが続いています。
 その中心地に「旧尾藤(びとう)家住宅」が建っています。同家は江戸後期には、生糸ちりめん問屋として活躍しました。邸内には蔵や座敷のほか、昭和初期の洋館など多くの見どころがあります。また季節ごとに展示内容が変えられ、四季の移ろいを感じます。
旧尾藤家住宅

 次回は、加悦谷の東部や南部まで、足を延ばしてみましょう。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.06 Saturday

黄金色の丹後

 このブログで丹後半島や舞鶴湾岸を巡っている間に、暑い夏が過ぎ、いつしか秋の気配が漂ってきました。

 この時季、丹後地方を回りますと、盛夏には緑の濃かった稲穂が、すっかり黄金色に色づいているのを目にします。
 私が子供の頃、稲の収穫は概ね彼岸の後だったように記憶しています。地元の方の話では、丹後では数年前の台風で大きな被害を受けたこともあり、台風が来る前に収穫を済まそうと、早稲(わせ)が多いのだとか。
 今、丹後の田舎道を走れば、ご覧のような風景が至るところに展開します。
大宮町の稔り

 丹後半島の北岸まで足を延ばしますと、青い海と、黄金の稲穂のコントラストが、実に綺麗です。
丹後町の稔り

 場所によっては、早くも稲刈りが始まっています。
加悦谷の稔り

 丹後米コシヒカリは、日本穀物検定協会の食味ランキングで、最高の「特A」に位置づけられた実績を持っています。確かに当地では、米も水も酒も、とても美味しく感じます。
 京野菜の中に、丹後を主要な生産地とするものも多いのですよ。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.04 Thursday

大浦半島へ

 私見ながら、丹後地方で特に「海」を感じさせるのが、先にご紹介した「丹後半島」東岸・北岸と、舞鶴市東部の「大浦(おおうら)半島」だと思います。いずれも彼方には茫漠たる大海原しかないという、地理的な特徴がそう思わせるのでしょうか。

 東舞鶴の赤煉瓦建築を見た後、北上すると、トンネルを抜けたところに、「舞鶴引揚記念館」があります。
 軍港であった舞鶴は、第二次大戦後は引揚港に指定され、1958(昭和33)年まで、多くの出征兵士や在留邦人の帰国を迎え入れました。跡地は公園となり、1988(昭和63)年には様々な史料を展示した記念館が完成しました。
舞鶴引揚記念館
 公園内には、当時の引揚桟橋を象った展望台も設けられています。そこから舞鶴湾を眺めますと、長期の過酷な抑留生活を終えて母国の土を踏んだ人々、また彼らを出迎えた家族の、喜びや感動に思いを馳せずにはいられません。
 一方で、待ち焦がれる人が帰ってこなかった家族の落胆・悲嘆を思うと、ひどく心が痛みます。

 引揚記念館へ来るとき通ったトンネルを戻ると、すぐ交差点があり、そこを右(西)へ曲がると、ほどなく「舞鶴クレインブリッジ」という大きな吊橋(斜張橋)が見えてきます。全長735mで、市の名前に因んだのか、鶴をイメージさせる美しい姿です。
舞鶴クレインブリッジ

 橋を渡り、長いトンネルを抜けると、左(南)へ行けば、海釣りや海上プラネタリウムが楽しめる「舞鶴親海(しんかい)公園」、右(北)へ行けば、農業公園や自然食レストランの「舞鶴ふるるファーム」があります。
 次の写真は、親海公園内の、客船の形をした舞鶴発電所PR館「エル・マールまいづる」で、中にはプラネタリウムが設けられています。
 この地域は、家族連れや小グループにとって、なかなか楽しく過ごせる一帯だと思いました。
エルマールまいづる

 大浦半島は、若狭湾に突き出た大きな半島です。海岸から離れると随分山深く、中央部には名刹「多禰寺」(たねじ)や「舞鶴自然文化園」があります。
 自然文化園はなにしろ広大な敷地ですから、行楽客が多くても気にならず、四季折々の花をゆったりと楽しむことができます。園内を歩いていると時折、遥かに舞鶴湾が見えてきます。
舞鶴自然文化園

 自然文化園から北上して、若狭湾へ行き当たるところが「竜宮浜」(りゅうぐうはま)で、夏は海水浴場として賑わいます。伊根町の「浦嶋神社」といい、大浦半島の「竜宮浜」といい、丹後は海の伝説が実に身近なところです。
竜宮浜

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |

2008.09.01 Monday

東舞鶴を巡る

 前回も申しましたように、舞鶴市街は山地で幾つかに分かれています。今日は西舞鶴から更に東進し、東舞鶴を巡ります。

 元来、単なる入江にすぎなかった舞鶴湾の東部に、横須賀・呉・佐世保に続く軍港(舞鶴鎮守府)が完成したのは、1901(明治34)年、日露戦争の3年前のことでした(初代司令長官は東郷平八郎中将)。
 湾口が狭く湾内が広い地形が、防御に適し、多くの艦船を収容できると評価されたのです。
 第二次大戦後は大陸からの引揚港として、多くの出征兵士や在留邦人を迎え入れ、現在では海上自衛隊の基地が置かれています。自衛隊桟橋にはイージス艦などの新鋭艦もしばしば停泊しており、特に事情のない限り、土日曜・祝日には、近寄って艦船を見ることができます。
自衛隊桟橋

 自衛隊桟橋の東方には、明治30年代に建てられた赤煉瓦倉庫群が並び、独特の情緒が漂っています。これらの建物は当時、兵器庫など海軍施設として使われていました。現在でも多くが倉庫として使われ、一部は「舞鶴市政記念館」「赤れんが博物館」などとして公開されています。
赤煉瓦倉庫群

 一連の倉庫群から少し南へ行ったところに、「北吸隧道」(きたすい ずいどう)が残っています。やはり赤煉瓦が用いられ、かつては鉄道のトンネルでした(全長110m)。1972(昭和47)年に廃線となった後、自転車・歩行者専用道路として整備されています。
北吸隧道

 このあたりを散策しておりますと、明治以後、日本の辿って来た近代化の歴史が、垣間見えるようです。
 今日はここまでにして、次回は湾岸を北へ向かい、「舞鶴引揚記念館」や大浦(おおうら)半島を巡る予定です。

Author : 天橋立ホテル | 秋の丹後 |