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2008.08.09 Saturday

天橋立−様々な景観

 最近は丹後半島北岸など、足を延ばして見ていただく内容が多かったので、今回は近接する天橋立を、しっかりご紹介したいと思います。

 天橋立は「日本三景」の一つと言われています。日本三景という言葉ができたのは江戸時代初期とされていますが、そもそも天橋立という地名は更に古く、平安時代中期に和泉式部(いずみしきぶ)の娘・小式部内侍(こしきぶのないし)が詠んだ、次の和歌があまりにも有名です。

 「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」(小倉百人一首)

 歌人として名高い母・和泉式部が、夫・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の任地である丹後へ下っていたとき、都にいた娘・小式部内侍は、歌合せの会で「丹後のお母さんに代作を頼む使者は出しましたか?」という、意地悪い質問を受けました。彼女の歌は、実は母が密かに作っているのではないかと、人々は噂をしていたのですね。
 上記の歌は、その質問に答えて詠んだものとされ、「大江山や生野(福知山近郊の地名?)を越えていく道のりは遠いので、まだ母のいる天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」という意味だそうです。「行く野=生野」「文=踏み」の掛詞や当意即妙の応答が、一挙に彼女の評判を高めたと伝えられています。

 個人的な感想ですが、私は天橋立に赴任する前、休日にはよく京都を探索していました。今思い出してみると、和泉式部は京都市街や貴船に足跡を残し、武勇で知られる藤原保昌は、保昌山(ほうしょうやま)という祇園祭の山に名を留めています。京都から丹後へ赴任した彼らは、私自身に重なる点もあり、何か他人でないような気がしてきました。

 さて、天橋立は見る場所によって、様々に姿を変えます。まず股のぞきで有名な、北側の小高い「傘松(かさまつ)公園」からの風景です。その形から「斜め一文字」とも言われます。
斜め一文字

 次は南側の「天橋立ビューランド」からの眺めで、「飛龍観」(ひりゅうかん)と呼ばれます。そう言えば、龍が身をくねらせて天へ昇るようですね。
飛龍観

 もう一つ、西側の「大内(おおち)峠」からの眺めです。天橋立が少々遠いながら、横に細長く一文字に見えるので、「一字観」(いちじかん)と称します。
一字観

 他にも、東側の獅子崎(しいざき)稲荷神社からの眺めが、雪舟の絵の視点に似ているところから「雪舟観」(せっしゅうかん)と名付けられ、また宮津市街の西−滝上(たきがみ)展望台からの「弓ケ観」(ゆみがかん)も名所とされています。
 但し、雪舟観は私が見た限りでは、樹木が茂って天橋立全体が見通しにくい状態でした。弓ケ観にはまだ行ったことがありませんので、他日を期したいと思います。

 最後に、我が天橋立ホテルの客室からの眺望をご紹介します。手前の内海・阿蘇海(あそかい)を隔てて、なかなか良い眺めでしょう?
天橋立ホテルから

Author : 天橋立ホテル | 夏の丹後 |